文豪セルバンテス波乱万丈なその生涯
     


聖書に次ぐベストセラーとして世界中の人々から愛されているドン・キホーテ。

けれどもその作者であるセルバンテスの生涯が
どれだけドラマティックであったのかを知ってる人は少ないと思います。
事実は小説よりも奇なり。
今日はそんなセルバンテスの波乱万丈な生涯をお話したいと思います。

1547年、ミゲル・セルバンテスはマドリッドの北東にある
アルカラ・デ・エナーレスという大学街に生まれました。
父親は外科医。
しかし耳が聞こえず、更には正式な免状を持たない、
そんな絵に描いたような喜劇役者っぷりな医師だったので、
当然のごとくセルバンテス一家は貧乏でした。
患者を求めて、各村々を転々とする、そんな生活を送っていたのです。

そんな訳でセルバンテス、正規の教育は殆ど受けてません。
しかし幼少の頃から、字が書いてあるモノなら道端に落ちている紙切れでさえ、
必ず拾って読む程の読書家だったと言われています。
どんな経緯があったのかは分かりませんが、
69年に人文学者ロペス・デ・オーヨスが編集した
フェリ〜ペ2世の王妃追悼の散文集には、セルバンテスの3編の詩が収められています。

1569年、セルバンテスはトあるツテを頼って、
栄華咲き誇るルネッサンス文化真っ只中のロ〜マに渡りました。
暫くの間はアックワブィブァ枢機卿の侍僕などをして食いつないでいたようです。

しかし血気盛んな若者故に、大きな大志を抱いてイタリア軍に志願入隊します。
セルバンテス22歳の春でした。

1571年、史上三大海戦の1つでもあるレパントの海戦で、
セルバンテスはトルコ軍を相手に勇敢に戦い、
地中海におけるイスラム勢力撃退に貢献する大勝利の立役者となりました。

しかしその海戦で胸と左腕を火縄銃で撃たれ、
胸の傷はかろうじて癒えたものの左腕は硬直し、
彼の言葉を借りるなら、
「右手の名誉をあげるために」彼の左手は生涯きかないモノとなりました。
それでも彼は軍人として生きる事を誇りとし、諦めず、再び戦場へと舞い戻りました。

そんなセルバンテスの戦功は認められ、彼は一躍時の人、英雄となりました。
1575年に同じイタリア軍に居た弟のロドリゴと一緒にナポリからガレ〜艦ソルにのって、
故郷スペインへ錦を飾る旅に出た時、彼の勇敢を称えに称えた
王弟の提督ドン・フワン・デ・アウステゥリアの感謝状、推薦状を手にしていた程です。
つまり英雄として故郷スペインにおけるセルバンテスの栄華は約束されていたのです。

トコロがスペインの大地を目前にして、セルバンテスの乗った船はトルコ小艦隊に遭遇してしまいます。
小競り合いの後、彼等は捕虜としてアルジェリアの首都アルジェに送られてしまいました。

そんな逆境の中でも、セルバンテスの反骨精神、不屈の闘志は衰えを知らず、
他の囚人を煽っては脱出を試みます。
1580年には当時ちょうどアルジェに居た母国バレンシア商人達に、
60人を乗せる事が出来る小艦を用意させ4回目の脱走を試みます。
しかし寸での所で裏切り者に密告され失敗してしまいます。

そんなこんなで死刑の危機にも瀕しますが、
常に仲間をかばうその豪胆さが、敵にさえも敬服の念を抱かせ、
辛うじて生き延びるコトが出来たのです。
身代金による解放のチャンスも、
スペインに妻と子供を残してきた弟に譲っています。

セルバンテスにとって、そもそもの不運は、彼が所持していた推薦状でした。
これは帰国後の宮廷での地位を約束するモノではあったのだけれど、
捕らわれの身となってしまった今では、
ただタダ身代金を吊り上げる為の紙切れでしか無かったのです。

セルバンテスはスペイン国王に身代金を払ってくれるように再三手紙を出します。
しかし全くナシのツブテ。
スペイン国王に限らず、都合の悪い時には無視するのが正式な国王のあり方です。

どこまでも反抗的な彼は、両手足を鎖に繋がれ、
ついにはトルコへ送られる手筈が整えられました。
そうなれば2度と帰れないのは誰の目にも明らかです。

極限まで追い詰めらた英雄セルバンテスを救ったのは、
国王では無く、彼の貧しい家族と修道士達でした。
家族が3000エスクードを用意し、不足分の2000エスクードを
修道士達がアルジェに居たキリスト教徒の商人の間を駈けずり回って用意しました。

1580年9月、晴れて自由の身となって
スペインのバレンシア地方にあるデニア港に降り立ったセルバンテスは33歳。
11年振りの故郷で、彼が一番に悟った現実は、
英雄だった彼の名は忘れ去られ、英雄としての人生も又、
終わりを告げていた事でした。

学歴も無く、一文無しとなった過去の英雄は、ゼロからの再出発を余儀なくされます。
当時の国王であるフェリーペ2世の秘書宛に、過去の戦功に相応しい報酬や、
アメリカ新大陸での就職を再三願い出ますが、ただタダ冷たくあしらわれるのみ。
文筆で身を立てる事を志し、戯曲を書いてみるのですが失敗に終わります。

ある女優と不倫関係に陥り、女の子を産ませた後、
何事も無かったかのように別の女性、カタリーナ・デ・パラシオスと結婚します。
1584年、セルバンテスは37歳、花嫁は19歳でした。

花嫁の持参金で生活が小康を得たのもつかの間、
セルバンテス一家はどうしようも無い貧困に喘ぎます。
初めての小説La Galateaを、1336レアルで売りますが評判はサッパリ。

日々悪化して行く経済状態は、この文豪をとんでもない職に付かせます。
イギリスの艦隊と戦うスペイン無敵艦隊への食料調達係りです。
それがどんな仕事かと言えば、国王の名の元に、
度重なる増税と、飢饉によって飢えに苦しむ人々の微々たる食料までをも取り上げるコトでした。
教会所有の穀物までも差し押さえねばならなかった為、
報復としてセルバンテスは教会からの全面的な追放を言い渡されています。

1588年に無敵艦隊が敗れ、この忌まわしい仕事を失うと、
次ぎにあり付いた仕事は滞納した税金を徴収するコトでした。
徴税吏に身を落とし、アンダルシアの野を歩きまわる屈辱の人生です。
どの仕事も人々の恨みを買うモノですから、彼と家族は村八分にされ、
道を歩けば石を投げられ...。
更には無実の罪で、(公金を預けておいた銀行家が失踪した為)牢獄にも入れられました。

かのドフトエフスキーもそうですが、牢獄と言う場所からは数々の名作が生まれています。
セルバンテスも又、彼の言う「あらゆる不便が幅を効かせ、あらゆる侘しい物音の棲家である牢獄」で
名作ドン・キホーテを生み出しています。
Sevillaの牢獄であっただろうと言われています。

セルバンテスの家族構成ですが、妻と娘、そして姉とその私生児、更には妹。
見事なまでの女所帯です。
故に文豪の再三のピンチにお金を調達する事が出来たのだ、と考えられています。
何を言いたいのか分かって下さいましたか?
つまりそんな訳なので、ご近所の評判も大変悪く、警察のお世話になるコトも多かったようです。

セルバンテスが57歳の時(1605年)、マドリッドでドン・キホーテ第一部が出版されました。
主人公が織り成す、そのいかにもスペイン的な誇大妄想的ファンタジーは、
当時悲惨なまでにドン底な生活を送っていた人々の現実逃避に役立ちました。
出版以前からこの物語の評判はとても高く、各地で版を重ねます。
この年のValladolid市のカーニバルでは、
小説の主人公であるドン・キホーテとサンチョに仮装した人達が、既に見うけられたとも言われています。

1606年に宮廷がValladolidからMadridへ移転したのに合わせて、
妖しいセルバンテス一家もMadridへ移りました。
彼のドン・キホーテは売れに売れ、大ベストセラーとなっていたのにも係わらず、
セルバンテスは相変わらず貧乏でした。
物語の版権を2000レアルで売ってしまったからです。
2000レアルって、どれ位の金額だか分かりますか?
同じ頃セルバンテスの妹が、愛人から手切れ金として受け取ったお金が3000レアルです。(笑)

懲りない男セルバンテスは、そんな貴重な2000レアルを元手に、
一攫千金を狙って賭博場に通います。
何処までも運の無い男は、すっからかんになります。

ドン・キホーテの贋作が現れた為、抵抗の意味でセルバンテスは第2部執筆のピッチを上げます。
そして1615年、10年の歳月をかけた偉大な作品、ドン・キホーテが完成しました。
既にこの時、彼の物語は英・仏訳され、各国の多くの人々から賞賛され、
更には各国の作家達に大きな影響を与え、
つまりセルバンテス、英雄再び、ってな感じでしょうか。

あぁ、けれども、だから、本当に何処までも運の無い男は、
そんな事実を夢にさえ見るコトも無く、最後の最後まで極貧のまま、
1616年4月23日、その波瀾に飛んだ人生の幕を閉じました。
死因は水腫か糖尿病だったと言われています。


※追記訂正
spainfan製作者のKonyさんから有難とってもタメになる情報を頂きました。

それから、余計なお世話かも知れませんが、Cervantesが投獄されていたとされる地下牢は
La Mancha地方のArgamasilla de Albaと言う村に在って以前は古い民家の片隅にあり、
前の家のSen~oraが鍵を持っていて頼んで見せて貰ったのですが、
最近は文化センターの施設の一部になり観光客に”遺跡”として開放されています。

だそうです。マタ1つお勉強させて頂きました。
Konyさん、どうも有り難う。




inserted by FC2 system