PICASSO

Nadie discute ya a PICASSO el haber inventado
lo mas significativo de la pintura moderna,
condicionando asi, de un modo inexorable,
el trabajo de todos los artistas (pintores, escultores y arquitectos) del siglo XX.


スペインの芸術を語るのにピカソから始める、というのは、随分かなり無謀な試みであります。
で、
逃げ道作っといていいですか?
えっと、私がスペインで勉強していたのは建築史です。

つまり絵に関してはズブの素人。
そんな訳で訂正、お叱り、その他モロモロ受けたまわりますが見捨てないでね


ピカソとは何ぞや?まずはソコから始めましょうか。
画家であり、彫刻家であり、陶芸家であり、版画家でもある。
なんて書いてたら、早くもケンジ様からツッコミメ〜ルが届きました。
有難くココ↓に掲載しときます。

ピカソ専門家(←ほんとかよ!)として一言。
ちなみに、ピカソは詩人でもあれば劇作家、舞台装飾家でもある。
共産党員
でもありました。

そして何事も無かったかのように続きを...

ピカソと言えばキュ〜ビズム、と答える人が多いかと思います。
しかしピカソは長い芸術家としての人生の中で、驚く程に様々な画風で絵を書いています。
「ピカソは一体何人居るんだ?」なんて言われている由縁でもありますね。
一説によれば、付き合ってる女性を変える毎に画風が変わる、とも言われてます。

だからピカソを語るのに、ピカソが愛した女性達は大変重要な鍵となります。
その関係は深く、そして激しく、
ピカソは画風を変える程に彼女達から影響を受け、そして又影響を与えている。
ピカソが亡くなった時、後追い自殺をした女性も居る程なのです。

「ピカソとピカソの愛した女達」に関しては、まだ読み終わって無い本があるので、
ココでは触れずに整理して次ぎの機会にまとめてみようと思ってます。
あ、でも、1つだけ。
女性に関して良くゴヤと比較されるピカソですが、
両者共に死ぬまで現役を貫いた「ツワモノ」であるコトを明記しておきます。

1881年の10月25日、パブロ ピカソは我がマラガに生まれました。
マラガの熱い太陽と輝く地中海は、幼いピカソの心に深く強く刻み込まれ、
そして何よりも3歳の時に父親に連れて行ってもらった闘牛は生涯に渡って彼を虜にしました。
後にピカソが南フランスの地中海沿いから離れられなかった理由を、
闘牛(南フランスにも闘牛があります)と、
彼が無意識の内に見出していた「心のマラガ」が南仏にあったからだ、と言われています。
(心のMALAGA←コレを大きく強調しておきます。)

1891年、二流画家であった父親は(←ちと失礼か?)La Coruña に絵の教師として派遣され、
ピカソ一家はマラガを後にします。
ところでこの父親、鳩を書くのが大好きです。
ピカソもそんな父親の影響を受け、生涯に渡って鳩を書き続けました。

La Coruñaの街は、スペイン北部の海岸沿い、ガリシア地方と呼ばれる所にあります。
日本の原風景を思わせるような、緑深く、雨の多い地域です。
つまりピカソが生まれ育ったマラガとは全く正反対の気候と風土を持つ街です。

そんなLa Coruñaに移り住んで直ぐ、ピカソをある悲しい出来事が襲います。
とても可愛がっていた妹のConchitaが4歳で亡くなってしまったのです。
ピカソはとても大きなショックを受け、
1935年に初めて出来た娘の名には、その亡くなった妹の名前を付けています。

1895年、二流画家であった父親に(←だから失礼だって?)バルセロナでの仕事が舞い込みます。
当時バルセロナは芸術の都として黄金時代を築いていました。
そんな訳で父親、La Coruñaでの仕事を即座に全く躊躇無く捨て去り、
ピカソ一家はバルセロナへ向うコトになりました。

この時代に書いたLa primera comunion(1896)が、バルセロナのピカソ美術館にあります。
ピカソは「俺は子供の頃、まるでラファエロのように絵を書いたもんだ」なんて言ってますが、
全くもってその通りです。

天才とは、生まれながらにして天才なのだとシミジミ思える、
そんなバルセロナのピカソ美術館をココにお勧めしておきます。


さて、悲しみに彩られたLa Coruñaから華やかな大都会バルセロナへとやって来たピカソ。
バルセロナは若き芸術家に随分な刺激と衝撃を与えます。
そしてこの頃からピカソは野心を露わに製作活動を始めます。

1897年、マドリッドにある、あの有名な王立サン・フェルナンド芸術協会の試験を受け、
天才ですからあっさりと合格します。
しかしその天才故に名門中の名門である協会の授業に不満を持ちます。

父親とも折り合いが悪くなります。
二流画家故に(・・・)天才の気持ちを理解する事が出来ない父親と
ピカソは初めて大喧嘩をします。

結局、この年の冬には協会を脱会してしまいました。

この時期、ピカソはプラド美術館にある絵を何枚も模写しています。
特にエル・グレコに傾倒していたようです。
しかしプラドでピカソが一番影響を受けたのはベラスケスのラス・メニーナスです。
色々な技法と構図を使って何枚も何枚もこの絵を元に描いています。

マドリッドから再びバルセロナに戻ったピカソは
4匹の猫(El cafe Els Quatre Gats)に足繁く通うようになります。
パリの「黒猫(シャ・ノワール)」のパクリだと思われるこのカフェは
当時バルセロナの芸術家、文化人の溜まり場となっていました。
後にピカソはこのカフェで最初の個展を開くコトになります。

勿論この時代も芸術はパリを中心に周っていたので、
ピカソは並々ならぬパリへの思いを募らせます。
パリを征服する野心もひとしおです。


当時パリで活躍していたルノワール、ロートレック、ゴッホやセザンヌに
ピカソは大きく影響されます。

全ての画家のタッチを模写していますが特にセザンヌへの思い入れが強かったようです。

そして1900年10月、親友のカルロス カサヘマスと共にピカソはパリへやってきます。
パリでカルロスはGermaineという名のモデルに恋をします。
しかしそれは決して叶わぬ恋でした。
12月、その不運な恋を忘れようとカルロスは一人スペインへ帰国します。
けれども陽気なアンダルシアの娘達さえもカルロスの傷心を癒す事はできませんでした。
パリへと戻ったカルロスは
再び苦しい恋に身を焦がせ、疲れきり、
その年の2月17日、とあるカフェで自殺してしまいました。


親友の自殺は、ピカソに大きな衝撃を与えました。
1901年代の彼の絵には、カルロスの惨劇が繰り返し繰り返し描かれています。
その中でも最も有名なのが、
エル・グレコ代表作でもある「オルガス伯爵の埋葬」を下絵にして書いた
(カルロス)カサヘマスの埋葬」です。
死に対しての複雑な寓意を持たせたこの絵は、
人生の喜び、栄光、そして悲しみと亡骸を下部に描き、愛の高揚、興奮、賞賛を天上に配した構図になっています。

この頃からピカソの名は徐々に知れ渡るようになります。
そして彼の画風は青の時代へと突入するのです。




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